通訳コラム

通訳者へのキャリア 連載第2回 2006.05.12

大使館→会議通訳者

1969年7月アポロ11号が月面着陸をしたとき、当時小学六年生だった私は、学校のテレビ画面を通してその様子を生中継で見ました。それが同時通訳の記憶を鮮明にした最初の出来事でした。そのときの通訳者は西山 千 氏(後に通訳学校で教えていただくことになりました)でした。通訳者のように他の言語が出来たらと、漠とした憧れを持ったのもそのときだったと思います。

中学校では英語が好きになり、特に中学2年生で初めてラジオ英語講座を聞いたときに「英語は音楽だ」と思って以来、すっかり英語のとりこになりました。高校時代はさらに英語が好きになり、ラジオやテレビの英語講座、英語の雑誌・小説などに時間を費やした時期でした。

大学に入って初めて外国人(大学の先生)と英語で話し、意外と自分の英語が通じることが分かると、コミュニケーションへの関心はさらに強まりました。その後英語以外の分野への関心も広がりましたが、職業選択としては、子供のころからの漠然とした憧れであった「通訳者になりたい」という気持ちが、大学生のときに強くなりました。とはいえ、当時の自分のおかれた状況では、卒業してすぐに通訳者になることは事実上無理でした。出来れば英語を使う仕事について、いずれ通訳の勉強が出来るチャンスをつかみたいと思っていました。

いざ就職すると、日々仕事に傾注しなければならず、通訳の道を目指すところからは程遠いものでした。それでも、将来的に通訳者につながるような仕事に就いていたいという思いを抱きつつ、何回か転職しました。しかし転職を繰り返すたびに、夢は徐々に遠のき、20代も終わりのころになると、地元長野の語学学校ですばらしい先生の下、充実して英語を教えていました。そして、もうこのまま地元に落ち着こうと思い、通訳者への道は事実上そのころにはあきらめていました。

その後31歳で留学試験に合格し、アメリカの大学の大学院に留学する機会を得ました。しかしそれもつかの間、何かと家庭生活に問題がおこり、学問中途で働かざるを得なくなりました。30代も半ばを過ぎ、「この先、人生どうしようか?」と考えあぐねた末、帰国を決意し故郷に戻りました。

後編へ続く

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倉澤 良仁 さん

京都外国語大学英米語学科卒。ポートランド大学大学院留学。在ネパール日本大使館、エプソン・ポートランド社、在ポートランド日本総領事館、長野オリンピック冬季競技大会組織委員会、在日フィンランド大使館等勤務を経て、2000年4月より、サイマル・インターナショナル専属通訳者として、会議通訳を行う。著書に「田舎少年が挑んだ会議通訳者への道:セルバ出版」(Amazon.co.jpにリンクします)と詩集「声心:文芸社」(Amazon.co.jpにリンクします)がある。