通訳コラム

通訳者へのキャリア 連載第7回 2014.09.12

新聞記者→会議通訳者

私が通訳になったきっかけは、米国赴任中に偶然手にした1冊の本でした。のちに師匠となる小松達也先生の書いた「通訳の技術」(研究社)。この本との出会いがなければ、私はいまでも新聞記者の仕事を続けていたことでしょう。

当時、ニューヨーク特派員として国連を担当していた私は、日々の仕事に忙殺されながらも、自分の将来について思い悩んでいました。特派員になるのは入社当時からの夢でしたし、国際報道の最前線での仕事に刺激を感じていた半面、その先の目標については、具体的に見えているものがなかった。一方で、日本と昼夜がほぼ真逆に当たる米国東海岸の労働状況は過酷で、外交問題が浮上するたびに、朝夕2回の締め切りに合わせて徹夜をする毎日が続いていました。
「あと何年、こんな生活が続けられるんだろう」
そう思うと、まだ30代前半のうちに、これからの生き方を考えておかないと、と焦りに似た気持ちが湧いてきて、日々悶々としていました。

自分には、ほかにどんな選択肢があるのか確かめてみたくなった私は、日本の転職エージェントに履歴書を送ってみました。大手企業での十数年間のキャリアと、名門といわれる米国の大学の修士号、英検1級をはじめとする英語系の資格もあったので、「プロがその気になって探してくれれば、きっと何か見つかるだろう」と、楽観的に考えていました。
数日後、送られてきたメールで、自分の甘さを思い知りました。
「松下さんのご経歴ですと、同業種以外への転職は難しいと思われます」

ニューヨーク支局の近くにあった紀伊國屋書店に立ち寄ったのは、そんな時でした。そして、何気なく手にした一冊の本が、私に勇気を与えてくれました。

正社員の身分を捨てて、自営業者として全く新しい分野に飛び込む決意はすぐにはできませんでした。でも、組織に頼ることなく、定年も気にせず、腕一本で生きていければどんなにいいだろう……。これまで企業勤めしかしたことのなかった私には、その自由が何よりも輝いて見えました。「よし、日本に帰ったら通訳学校に通おう」。そう心に決めました。

帰国後、複数の通訳学校を受験する中で、通訳訓練を全く受けたことがない私の見よう見まねの通訳を聞いて、一番上の同時通訳科に入れてくださったのがサイマル・アカデミーの小松達也先生でした。1年で卒業し、サイマル・インターナショナルと専属契約を結ぶタイミングで退社。37歳での決断でした。

なってみて感じたことですが、通訳の仕事は記者職によく似ています。人の話を聴き、その内容を自分の言葉で伝える。事前準備が重要で、幅広い知識が求められる。好奇心が強く、勉強家の人が向いているなど、共通点はいくらでもあります。そのおかげでしょうか。1年目から仕事の機会に恵まれ、2年目には年間250件ものお仕事をいただけるようになりました。

新聞という媒体を通じて、目には見えない読者と結びついていた頃とは違い、いまは目の前の相手に直接メッセージを届けることができる。悔しさもやりがいもダイレクトに感じられる通訳という仕事が、私は大好きです。この喜びを、より多くの人に知ってもらいたいと、大学での授業やインターネット講座を通じて、後進の育成にも努めています。東京オリンピックが開催される2020年までに、良質の通訳者を量産すること。それが、今の私の大きな目標です。

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松下 佳世 さん

米コロンビア大学ジャーナリズム大学院修了。朝日新聞のニューヨーク特派員などを経て、サイマル・アカデミー通訳者養成コースで学ぶ。修了後、サイマル・インターナショナルの専属通訳者を経て、2014年4月からフリーランスに。2014年9月からは国際基督教大学の准教授として通訳学などを教えている。